鹿児島市は、九州の南端鹿児島県本土のほぼ中央にあって,東経130度23分から130度43分、北緯31度17分から31度45分に位置し,北は姶良市、西は日置市、南は指宿市などと接しています。
市街地は、鹿児島湾に流入している甲突川など7つの中小河川により形成された小平野部にあり、その周辺は、海抜100mから300mの丘陵地帯(シラス台地)となっています。
鹿児島市の気温は、過去5年間の平均によると夏季最高気温35.5度、冬季最低気温-0.86度であり、年間平均気温18.6度という温暖な気候に恵まれています。
年間降水量は、2,355ミリに達し、6月から7月にかけて最も多く、年間降水量の約44パーセントはこの時期に降ります。
また、市街地と錦江湾を隔てて、桜島が現在も活動を続けており、風向きによって、火山灰が市街地に降ることがあります。
(平成25年の桜島爆発回数1,097回、鹿児島市役所本庁での年間降灰量3,214g/平方メートル)
江戸時代の鹿児島市は、禄高77万8千石・天下第二の雄藩で薩摩・大隅(鹿児島県)・日向(宮崎県南部)の三国を治めた島津氏の城下町として発展してきました。
「丸に十の字」の紋に羽振りをきかした島津氏の統治下、鹿児島市が藩政の中心となり、南九州の雄都の地位を占めるに至ったのは、第6代島津氏久公が東福寺城(現鹿児島市清水町)を居城にしたとき(1340年頃)に始まると言われています。
以来500年にわたる島津氏の統治下のもと、鹿児島市は南九州一の都市として着実に繁栄と進展の歴史をつくりあげました。
鹿児島は、大陸や南洋諸島に近いという立地条件から、必然的に琉球を中継地として早くから貿易も活発に行われ、また、大陸文化やヨーロッパ文化の門戸ともなりました。
16世紀の中頃、フランシスコ・ザビエルが上陸し、わが国に最初にキリスト教を伝えたことなどは、その代表的な例ともいえます。
さらに、近世に入ってからは、19世紀の中頃新しいヨーロッパの機械文明を取り入れた研究が進み、第28代島津斉彬公のもと磯(いそ)地区一帯では反射炉や溶鉱炉が造られ、わが国における近代工業化の発祥の地となりました。
近代日本の黎明、明治維新においては、薩摩藩の元勲西郷隆盛・大久保利通などを筆頭にその原動力となり大いに活躍したのをはじめ、黒田清隆・松方正義・山本権兵衛が歴代総理大臣を務め、軍人では西郷従道・大山巌等、教育界では森有礼(初代文部大臣)、実業界では五代友厚が、また文化の面でも黒田清輝・藤島武二(洋画家)、有島武郎(小説家)等、幾多の人物を輩出しました。
その間、明治4年に廃藩置県とともに県庁の所在地となり、同22年4月には市制が施行されました。
鹿児島市は、第二次世界大戦の戦火で市街地の約9割を焼失しましたが、市民のたくましい建設意欲のなかで思い切った都市計画が策定され、将来の躍進に備える礎が築かれ、戦後は観光・商工業の発展とともに市域も拡大し、昭和42年4月29日には隣接する谷山市と合併して人口38万人の新鹿児島市が誕生、同55年7月には人口50万人を突破しました。
その後、平成元年には市制施行100周年を迎え、平成8年4月1日には中核市に指定されました。
また、平成16年11月1日には吉田町、桜島町、喜入町、松元町及び郡山町と合併し、政治・経済・社会・文化等高次な都市機能が集積した南九州の中核都市として発展を続けています。
そんな鹿児島市のアクセスですが、市役所本庁の所在地を掲載しておきましょう。
◎鹿児島市役所 〒892-8677 鹿児島県鹿児島市山下町11-1
市電の場合、「市役所前」下車 徒歩1分
バスの場合、「市役所前」下車 徒歩1分(民間・市営)
なお、いずれの場所も車で行くことは可能ですがここでは簡略化していますのでご了承ください。